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01 /黒衣の魔女



 屋根裏の小部屋。
 小さな机と、ベッドだけが置かれた簡素な空間。
 開け放たれた窓から夕日が差し込み部屋を赤く染め、草の匂いを含んだ風が入って大きくカーテンを広げる。
 クラゲの様に大きく舞うカーテンに包まれるようにして、窓辺には一人の少女が立っていた。
 深い黒のワンピースに身を包み、凛とした立ち姿で窓の外の景色を目に映している。
 夕暮れ時間。
 赤く焼けた空に、濃く深い影をまとった怪しい入道雲。
 風は湖の水面をさらう様に低く吹き降りて、終いには柳の木の枝葉を大きく揺らして空へとかえっていく。
 その風を、名前も知らない鳥たちは、広げた翼で確かにつかんで、更に高く上昇した。
 そんな景色を眺める少女の瞳は夜の色。
 もう、当分この景色は見納めだ。
 退屈な田舎町の見飽きた景色でも、最後となると惜しむ心を感じてしまう。
 旅立ちは明日。
 背後のベッドには、少女に不釣り合いに大きな真っ赤なトランクケース。
 少女の嫌いな紅色は、彼女の母のお気に入り。窓の外の夕日の様に、視界の隅でも鮮やかに、自己の存在を主張する。
 快活で、未だに夢見がちな母だから、そんな派手な色を好むのだろう。
 好きな色は生き様だ。
 真紅を好む母のそれは、強い意思を持った色。明確な考えと、理由と、夢があって、それを誰かに知らせたい。周囲を巻き込む、希望に満ちた人。
 対して、私はどうだろう、と少女は思う。
 いつも身に纏うのは、ぐちゃぐちゃに多くを飲み込んだ深い黒。
 考えるまでもない、そこにあるのは単純な劣等感。
 夢の無い、伝えたい言葉の無い少女に、母の様な派手な色は重たいだけだ。
 問われて返す答えが存在しないから、目立たず多くに隠れる色を選ぶ。気付かれる事がないのなら、問われる事も無いだろう。
 強い自己がないという劣等感。未だ明確な生きる目的の無い少女の内心は、気付かぬうちに焦っていた。きっとそれは、彼女の同年代の中に少なからず生まれる小さな絶望。多くはそれを忘れ、多くはそれに納得し、多くはその答えを見つける。
 少女は自分自身そうやって眠れぬ夜のうちに答えを探してあがいていることに気付いていない。
 それでも、小さな齟齬を見つけて、時折確かな劣等感を感じた時に、その片鱗に気付くのだ。
 時折僅かに感じる劣等感は、重なり深い影になる。
 自分の好む深い色は、そうして出来上がっているに違いない。
 少女はそんなことを考えながら、窓の外、遥か彼方の先に沈みゆく夕日を眺める。
 もう、直に夜の時間。
 夜が落ち着くのは、己の不確かな姿が光に晒されず、ぼやけて闇にまぎれるからか。
 それとも。
 手にした神秘を隠すのに都合がいいからか。

///

 "魔術"というものが、現代、科学の世の中で存在してはいけないものでと、少女は知っている。
 知った上で、少女はその神秘に手を染める。
 否。
 少女にとって魔術とは。
 科学という一般常識を知るより以前に、すでに出会いを済ませた、確かに存在する世界の一部。
 電球の明かりより先に、少女の世界はマナによって照らされたのだから。
 少女が、科学を信じ、魔術の存在を疑うのは、そう容易い事ではないのだろう。

///

 イギリスの片田舎の小さな町の、その外れの林の先。
 湖の畔に建てられた小さな洋館で、アリス・エイブルという少女は生まれた。
 父は売れない童話作家。
 母は名のある魔術師だった。
 そんな両親の馴れ初めはさておき。
 間に生まれた少女は、その瞬間から、生涯を魔女として過ごす事を義務付けられた。
 それは、どうあっても逃れられない宿命。
 その家に生まれたからには、人外の神秘に出会わずに一生を終えることはあり得ない。神秘に出会ったものが、平凡な一生を手にすることは叶わない。
 実際に存在するものを否定し続けて生きるのは、そう容易い事ではないから。
 少女は神秘を受け入れ、幼いころから深く魔術を学んだ。
 その過程で、多くの常識と、そこに含まれない幻想との違いを理解した。
 多くを知り、多くを見分け、神秘の根底に近づいた。
 魔術師の家の子に生まれ、十五年の間、アリスはそうやって一人前の魔術師へと成長して。
 旅立ちの日。
 それは少々急なものであったが、いずれ訪れるその日への覚悟はとうにできていたから。

///

「魔法?」
「そ、魔法。それを君に継いでほしいんだ」
「どういうこと?」
「詳しくは今はなすけど、取り敢えず日本に行ってもらいたいかな。ユズ――君のお母さんの故郷なんだけど」
 いつものように温和な笑みを浮かべながら。
 何千回と繰り返した朝の挨拶と同じような気軽さで。
 父はアリスに旅立ちを求めた。
 魔術師として、いずれは訪れるだろうと、いくらか心構えはしていたアリスだが、本当に突然の。
 それも、堅苦しい雰囲気など微塵もない話の切り出しに、多少なりとも戸惑いを感じたよう。
 しかし、そんなアリスをよそに、父は一人話を続ける。
「どこから話したらいいのかわからないから、簡潔にいうけれど。君のお祖父さんの、櫂田博嗣って人がね、魔法を所持してたんだ。僕はよくわからないけど、すごく希少なものなんだろう? 
 お祖父さんも、大切に保管していたんだろうと思うけど……。昨晩、向こうに住む親せきから連絡があってね。
 ―――お祖父さん、亡くなったらしい。
 まぁ、随分と高齢の方だったし、たとえ病気を患っていても、あの人も頑固だから。連絡の一つも寄こさなかったわけでね。だからまぁ、急な話になってしまったわけだけど」
 そこまで言うと、紅茶を一口含んでの小休止。
 ただ、アリスが口をはさむ暇を置かずに、すぐに話に戻る。
 ――――あぁ、こういうところは父らしい。
 と、アリスは思いながら、再び父の話に耳を向ける。
「それに、ちょっと話を聞くと、少々問題ごともあるみたいでね。取り敢えず、娘のユズに連絡して、その問題を解決してもらいたい、と。それで、そのまま魔法を継いでもらえないか、と。
 まぁ、そういう事なら、って、僕は思うんだけどね。…………君のお母さん、お祖父さんに似て頑固で、我儘だから。
 僕について家を出る時に、二度と戻らない、なんて言ってたみたいでさぁ――――じゃあ、代わりに僕が行ったとして、魔法やら魔術やらさっぱりだろう? だから、一度アリスにお願いしてみようと思って」
 そして、こう、母を甘やかすところも父らしい。
 アリスはそう思いながらも、それは少し違うな、とも考える。
 父は誰にでも優しいのだ。それはもう、おかしなくらいに。
 絶対に強要はしないし、相手が嫌だというのなら絶対にそれを行わない。
 多分、ここで自分が、嫌よそんな事、と言ったとしても、すんなり受け入れてくれるのだろう、とアリスは思う。
 しかし、アリスには断る理由も無かった。
 家を出たくないだとか、一人は嫌だとか。
 そういった感情の一切を持ち合わせていないから。
 同じくらいに、了承する理由もないのだが。
 どちらも同じ比重であるのなら、少しでも前に進める方を選ぶべきだ。
 これといった夢も、理想も持ち合わせていない少女だからこそ、それをある意味貪欲に求めているのかもしれない。
「――――どうだろう? 日本に行ってもらえないかな」
 好きにしてくれていいよ、と。
 父は相変わらず気楽な、普段通りの温和な笑みを浮かべて。
 多少の迷いはあっても、アリスの決意は揺るがなかった。
「ええ、行くわ。一度魔法というものも見てみたいし」
 
///

 少女の旅立ちの経緯なんてこんなもの。
 もしかしたら、ほんの少し両親への反抗心もあったのかもしれない。
「いってらっしゃい」
 と、の父の声に見送られ。
 返事もせずに家を出た。
 振り返りもしない少女の姿に、母は笑い、父は少し寂しさも覚えながら。
 

◇◇◇


 目を覚ますと、蒼の世界。
 窓の外、眼下には彼方までが、白く広がる雲海と煌めく海面。
 随分と高いところを飛んでいるというのに、太陽はまだ遙か高くで光を放つ。
 寝起きの、あまりはっきりとしない思考をもって、アリスは窓の外に確かな違和感を感じた。
 微睡の視界。
 機内より少し離れた、比翼の先端。
 そこに、僅かの間。
 小さな子供の姿があった気がした。
 羽の上にのんびりと腰を下ろして、空へと足を投げ出しているそれは、朱色の瞳を機内へと向けていた。
 寝惚け、ふわふわとした意識の中。
 アリスは、羽先に座る子供と目があった気がした。
 じっと見つめる朱色の双眸に、アリスは夕焼け空を連想した。そのせいか、瞬き一つしない子供の瞳に、微かに哀しみの色を感じる。
 瞬きの内に、子供の姿は羽の上から消えていた。初めからそこに何もいなかったように。
 鉄の羽が空を切って進む光景が残っている。
 そういう事もあるのだろう――――と。
 子供の姿が消えるのと同時に、靄がかかっていたような視界も思考も晴れていた。
 鞄の中から文庫本を取り出して栞を開く。

 そうして、しばらく経った頃には、手元で踊る文字はグルグルと揺れまわって、内容が頭に入ってこなくなっていた。
 うずめく言の葉の中に、アリスは、ふと昨日の事を思い出していた。
 気に留めぬようにと、忘れていた些細な事。
 
///

 旅立ちの問いを、どうして父が自分に伝えたのだろうか。
 アリスが感じたほんの些細な、それでも強い疑問。
 幼いころから、魔術師としての道を歩むことを受け入れ、日々を過ごしてきたアリスだが、魔術など神秘の出来事のすべてを、アリスは母より教わっていた。
 それは、代々魔術師の家系に生まれて、深い知識を持っていたのが母であり、父はイギリスの片田舎に生まれた売れないただの童話作家であったからだ。
 アリスは、魔術の知識も、魔術師としての作法や振る舞い、心構えに風習。そして、神秘の歴史に至るまで。そのすべてを母より受け継ぎ、魔術師としての道を歩んできた。
 その為であろうか。父が、その話をしたのが、少しの違和感となっていた。
 会った事も無い祖父が他界し、その魔法を継いでくれと。
 それは、魔術師として、大袈裟にいうならば代々続く歴史を担う、という事にも成ることだ。
 となれば、それは今まで、母がアリスに伝えるべき事の内に含まれている様に思える。
 だから、アリスは疑問した。
 なぜ、今まで神秘の事で自分に関わりを持たなかった父がこの話をするのだろう、と。
 考えても、納得できる答えが浮かばず、ただぼんやりと、同じ問いが頭の中で反芻される。
 そもそも、大した疑問ではないというのに。
 ただ、答えが浮かばぬというだけで。
 疑問は遠く異国の地を目指す飛行機の中で振り切ることの出来ぬほど、徐々に強いものに変わっていった。
 それは、一種の呪いのような感覚。
 魔術師でもない、父に。
 何か呪いをかけられたのではないかという、錯覚。
 忘れても、ふとした瞬間に片隅から膨れ上がる、些細な感触。
 それが、蝕むように、アリスを包む。
 一切の害はない。
 時折、柄にもなく叫んでみたくなるような、そんな衝動が生まれて、消えるだけ。
 
 家を出る前に、聞いておけばよかった、と少し後悔する。
 それが嘘か真かは定かでなくとも。
 少なくともアリスの内心は今よりよほど穏やかであっただろう、と。
 空の上、アリスは再び微睡に落ちていく。
 
 ///

 アリスが気付くことは無いだろう。
 アリスに多少でも疑問を抱かせた。
 それが、父の狙いであり、願いである事を。
 深い意味のない、関わりを残したいがための、父のエゴである事を。
 約束の無いまま。
 楔だけを打ち込んで、その代わりにした。
 旅立つ娘が、いずれ帰ってくるようにとの御呪い。

///

 気付けば空は朱色に染まり、開いていた文庫のページは閉じていた。母がお守りだと、家を出る直前、アリスに手渡した四葉の押し花の栞が頭だけのぞかせている。
 随分と眠っていたのか、アリスは節々の関節が痛むのを感じた。
 今は一体どこの空を飛んでいるのだろうか。
 ふと、窓の外を見てそんなことを思う。
 こんなにも広く、妨げの無い所なのに。
 それでも、ここだって、人の手で区切られた、どこかの国の、どこかの領域に違いない。
 自由な空など、空想でしかあり得ないのだろうか。
 徐々に朱色の空は深みを増していき、朱色は雲海の彼方で収束していく。
 もう直に、鉄の鳥は目的の場所にたどり着くだろう。
 産まれてから、一度だって訪れたことの無い、母の故郷。
 胸の奥が、ズキリと小さく痛んだ気がした。
 何か、くだらない存在を思い出したように。


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