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/02 場所


初めて遠い異国の地に降り立って、7時間ほど。
 空港から電車を幾つか乗り継いで、アリスが母の生まれ街にたどり着いたのが丁度二時間前になる。
 その時は辛うじて明る味を残していた空も、気付けばすっかり夜の様相に。
 カエルや虫、鳥の鳴き声だけが周囲を包むように響き、見上げれば、満天の星空。空に星の川が架かった様に無数の光が瞬いている。
 町の中心から離れた無人駅のホームは、小さな蛍光灯の明かり一つで照らされただけ。周囲に民家の明かりは幾つか確認できるものの、その一つ一つの感覚は広く、駅からも随分と離れて見える。
 ふと、見上げた駅舎の時計は九時を回っていた。
「………………」
 約束では、駅まで祖父の使用人だった人物が迎えに来る事になっていたはずだが、こうしていくら待ってみても、その人物が訪れる気配はない。
 その間、荷物を脇に、ずっと手元の文庫本に視線を落としていたが、ついにそのページも尽きて、いよいよ、暇を持て余す術も無くなり――、しかしそれでも、アリスは然として、そこから一時間はぼんやりと、遠くの民家の明かりを眺めていた。
 だが、その明かりも一つ二つと消えだして、いよいよ明かりもあと一つになってから、
「…………仕方ないわね」
 と、重い腰を上げる。方脇に置いたキャリーバックを転がして、徒歩で祖父の屋敷へと向かうことにする。
 田畑の並んだ中を真っすぐに伸びる道。街灯は無く、月と星の明かりだけが、青く夜を浮かび上がらせている。
 そうして、歩みを進める中、
「それにしても、やりすぎね――――」
 と、会う事も無かった祖父に毒づいてみる。
 理由は三つ。
 そのどれも、駅に降り立っていた時から感じている、強烈な不快感で。アリスを縛り、内心を乱すものだ。
 一つは、この土地そのものの在り方である。
 恐らく、古くからの霊地であったのだろう。膨大な魔力の宿った土地である事は、すぐに判ったが、問題はその魔力の質である。
 随分と長い年月、他者から踏み荒らされることが無かったのだろう――、この土地に宿る魔力は歪なもので、恐らくはこの地に暮らした、魔術師の家系――櫂田のものに馴染みすぎている。
 普通、土地に宿る魔力――地脈や、霊脈、龍脈などと呼ばれる、それらは個性と持たないことが多い。それは、この星の内から溢れた魔力が地脈として土地に滲み出ているからで、つまりは、この星が元々持っていた魔力の一種であるためである。
 あふれ出る源が同じであるから、地球の反対側だろうが、この星からあふれ出る魔力として、基本的に同一で、個性を持たないはずなのだ。
 対して、魔術師が自ら生成する魔力や、大気中に存在する魔力というのは、個性を持ちやすい。個人というフィルターを通して、その人物に一番適した、毒にならない形に、魔力自身が形を変えるから為といわれている。
 今問題なのは、土地の魔力自体が、その個人の魔力に近い状態に成っている事である。
 そうなっている理由は不明だが、これは他所の者魔術師にとっては、あまりよくない状況である。
 本来魔力というのは、人の身体には毒である。
 毒であるが、同時に、ほぼ総ての人の体内に存在するとも言われている。魔術師だろうが、そうでなかろうが、潜在的に、その内包量に差はあれど、それが存在しないことは珍しい。
 そうして個人の内に内包された魔力は、その個人に馴染んでいるために、その人物にとって毒になることは無い。
 よく例えられるのは、血液だ。
 同じ血液型であれば輸血しても問題は無いが、異なるそれを輸血した場合、体内で血液が凝固し死に至ることがある。
 魔力もそれと同じようなことを引き起こす。
 自らの内に、自らのものと異なる魔力が入り込むことで、強烈な拒否反応が現れ、最悪の場合死に至る。
 だから、基本的に魔術師は自ら生成した魔力しか使用しない。
 生成、とはいっても、体内から湧き出てくるわけではなく。
 本来毒に成りうる、大気中の魔力を体内に取り込むことで行う。
 その過程で、自ら毒にならないように変換することで、体内に正常に貯蓄する。魔術師の持つ魔術回路の質とは、その変換の速度を指す言葉であり、その効率の良さは生まれながらに決定されている。
 魔術師が魔術を使うには、自分にとって毒となる要素を体内に取り込まねばならないのだ。
 一日に生成できる魔力量は限られている。それも、なんの色も無い、星の生み出したマナである場合の話で――――
 この街の様に、あまりに個人や家系の魔力の質に染まったマナでは、その変換効率も悪くなる。
 無理をして、変換不能になるレベルまでマナを取り込めば、拒否反応が起きてしまう。
 この地の魔術師の血を半分引いているアリスでさえ現状、普段の生成量の七割程度しか、魔力の変換が行えない状態で。
「嫌になるわ」
 完全にこの土地と無関係の魔術師であれば、魔力の生成できる量は通常の半分以下にまで落ち込むだろう。
 それは、外からの攻撃を防ぐ櫂田家の立場から見れば、かなり有利な状況だともいえるが、アリスにしてみれば、不快感を得る要素の一つにしかならないのだ。
 ――――だが、問題は、それよりも。
 アリスの感じるもう一つの不快感。
 それは、母国を旅立つ前に、母がアリスに伝えた事ではあるのだが。
 実際それに入り込んで思うのは、茨に縛り付けられた様な、否応の無い束縛感。
 水の中に突然放り込まれたような、多くを制限された感覚。
 ――――実際問題として。魔術師を魔術師とする要素を封じられているのだから、不快に思わない理由が無い。
 それは、櫂田博嗣が敷いた、敵対者向けの結界であり、自らが命を落とした場合の、櫂田家の所有する魔法を守るための、最終防衛手段。
「魔術禁止術式をこんな大規模に展開するなんて――――。いい性格してるわ、本当に」
 魔術禁止術式――効力は読んで字の如く。範囲内の魔術の使用を制限する術式である。
 方法は幾つかあるが、酷く手間がかかるため、現代では、自陣の防衛にのみ使用され、即効性のある魔術戦で使われることは珍しい。
 魔術戦で使う場合は、せいぜい小型化したものを、トラップとして設置するか、対象をとって、それに限定した反作用術式/アンチスペルを仕込むかのどちらかである。
 それも、小型化した、即効性のあるものを使うのならば効力は弱く、だからと言って、強力なアンチスペルを組むなら、長期的に戦闘を行い、相手の持つ術を知らなけらばならないため効率が悪いため、好んで使用する者はそう多くは無い。
 一方で、防衛のために使用される術式の場合は強力で範囲も大規模である事が多い。
 それは、戦闘に入るまでの間、長期間に術を仕込め、どんな状況にも対応できるようにしておくためである。
 防衛のために敷く術式は、外敵の魔術を制限するものに限らず、攻撃的なトラップや、より強固な、そもそも侵入すら許さぬように張られた結界レベルのものまであるが、自らの土地や、工房を持つ魔術師は規模の違いはあれど、必ずそれらを設置していると言っても過言ではない。
 仕込んでおいた術式で侵入者を追い払えれば儲けもの。追い払えずとも、術式にてこずっている間に、迎撃の準備を行え、何より敵の情報を得ることが出来る。
 そのため、防衛用の術式を仕込んでおくこと自体は、魔術師にとっては当然のことで、あえて怠る理由もないものなのだが――――
 この街の場合は多少それが度を過ぎているのである。
 櫂田博嗣の敷いた防衛術式の効果は『発動の禁止』。範囲内での、新たな魔術の行使を禁じるものだ。
 その時点で、防衛手段としては申し分ないレベルのもので、制限系術式の最上位の効果を持ったものである。
 櫂田博嗣はそれを土地の地脈と同化することで、街中に張り巡らせた。街中――というよりは、街そのものを術式として機能させているに等しい所業。
 通常大きくても、自らの工房を中心として半径一キロ程度。
 それを、街全体に範囲を広げているとなれば、世界中探してもそう多く見当たらないはずだ。
 アリスの不快感は、その術式の効果の対象にされた所から始まっている。
 対象に取られてさえなければ、そもそも、徒歩で重たい荷物を引っ張り、屋敷に向かう必要が無いのだ。
 それこそ、箒にまたがり、魔女らしく空を移動することだって――アリスの使用する魔術であれば可能である。――浮かぶ、飛ぶ、といった表現とは少し外れるかもしれないが……。
 それを封じられているから、異国の地で暗い夜道を歩く羽目になっているわけで。
 まぁ、術式時自体は、書き換えれば効力を自分を対象から外すことも出来るだろう。
 恐らくは屋敷にこの術式の大元があるだろうから、着いたらまず、この厄介な術式を切らねばならないだろう。外敵魔術師を追い払うのために、自らの持ちうる術を封じられている状況は、改善せねばならない。
 何より、そうせずに放っておいた場合、この術式がそう長くは持たないことを、アリスは知っているため、ここぞという時のため、術式のエネルギーを温存しておかなければならない。
 術式だけではない。
 先の、この土地の個人に染まった魔力も、すぐに正常な――無色のマナに変わると想像できた。
 と、いうのも、この術式を仕込んだ櫂田博嗣が他界した時点から、この術式は完全に独立した状態で存在する。そして、術式が効力を維持するにはそれなりの魔力が必要で、これまでは櫂田博嗣が補っていた分を、地脈から取り込むこと事になる。
 そうして地脈のマナは消費され、消費された分、新たに星が生成したマナが地脈に流れる様になり、正常な魔力の流れに変わる。
 同時に、術式も機能しなくなる。
 それは大規模な術式ほど、高性能で、多機能なものになるのだが、そうなると他の魔術師に乗っ取られた場合に、自らに襲い掛かるリスクは相当なものになるためで。
 それを防ぐために、術式というのは、上等なものほど、それをつくった人間の魔力でしか発動できないようプロテクトをかけておく事も多くなる。そうして置くことで、他の魔術師に乗っ取られ、悪用される心配も無くなる。
 今、この土地に張られた術式は、櫂田家の魔力の質に近いマナを動力とすることで稼働を続けているが、それを消費し、新たなマナが補充され、といった循環が進むと、動力にできる魔力が無くなっていくために、徐々に効力を失っていくことになる。
 最後、三つめの不快感はそこにある。
 術式の効果対象から自らを外したとして、アリスが有利な状況で戦えるのは、土地の魔力が櫂田家の特色を帯びているうちか、術式が発動している間という、限られた期間しかないところである。
 アリスの言い分としては、勝手に定められた期限で、どうして自分の行動が縛られなければいけないのか――というわけで。
 魔術の使用だけでなく、生成、そして、敵対者へ向けての行動にまで制限を設けられて、いい気のする魔術師はいないだろう。
 それも、自陣の防衛を行う、という状況での制限なら尚更だ。
 自分が他人の土地を荒らしに向かうがわならともかく、一体どうして守ろうとしている対象に枷を付けられなければいけないのか――――


「……………………」
 無言で歩みを進める中、アリスの心には、次第に苛立ちが募っていく。
 それは決して態度として表に出ることは無いが――
 アリスは畦道をひたすらに進んで、ようやく屋敷のある丘の麓にまで辿り着いていた。
 開けていた視界は一転、木々が視界を遮って、暗闇に隠れた森が広がっている。
 視界の悪い森の中を、一本の坂道が真っすぐに上まで延びている。
 視界を蓋う木々の影を寄せ付けぬように、坂道には点々と蛍光灯の明かりが落ちている。その明かりは丘の上まで続いているのだが、その数だけで、アリスの歩いてきた畦道に点滅していた街灯の数よりも多かった。
 普段徒歩での移動を行わないアリスにとって、此処までの道のりは中々に険しく、最後の一山を前に、少し休憩をとることにする。
 坂の麓の街灯の明かりの下で、ずっと引きずってきたバックを椅子代わりにしばしのブレイク。

 直に夏本番。
 そんな異国の夜は湿った熱を帯びていて、肌はじっとりとした、汗なのかどうか、よくわからないもので湿っている。
 足元を見下ろすよりも、幾分気分がよくなりそうだと、アリスは天を仰ぐと、ほんの少し冷たい風が、山の方から降りてきて肌を撫でた。
 ふと、風の吹いてくる方の空を覗いてみる。
 暗がりの先の空に月は無く、砕けだ光の欠片が散らばって、それぞれが、彼方の光を瞬かせている。
 その時。
 そんな、夜空の瞬きが矢になって落ちてきたような、強い光が丘の頂で破裂した。
 破裂した光は風になって、坂の下からその様子を見上げていたアリスの元に吹き降りてくる。
「――――――――」
 微かではあるが、瓦礫の崩れる音。
 数百メートルの坂道の先に、薄らと炎の揺らめきが生まれたのが確認できた。
 どうにも、これ以上休んでいることは出来なそう。
 アリスは椅子代わりにしていた鞄をそこに置いたまま、坂の上に向かって地面を蹴る。
 体力も限界で、運動能力からして皆無のアリスでは、坂を駆け上がる速さも満足ではないだろう。
 坂道は距離にして600メートルほど。
 勾配は15度前後だろうか。中々に急な坂は、アリスの足で無くとも、一気に駆け上がるには苦労する程の凶悪さ。
 それでも、アリスは、自らに託された使命を簡単に放り出すことは出来ないと――――表情は変えず、額に大粒の汗をにじませながら、不恰好に坂を駆け上り始める。
 時間を駆けながらも、駆ける足を緩めること無く。
 坂の中ごろまで差し掛かったころだろうか。
 息が切れ、肺が悲鳴を上げるころになって――もう二度と、地面を駆けることなど有り得ない、とアリスが自らに誓ったその時だ。
 状況に変化が起きた。
「――――そういう、こと…………っ」
 その変化を肌で感じて、アリスはようやく、向かう先の様子と、敵の目的が鮮明になった。
 
 結果だけを先に言うならば。
 祖父の編んだ魔術の禁止術式を破壊された。――確定ではないが、そう考えて間違いはないだろう。
 あの術式は、強力であるが故、この街に攻め入ろうとする外部の魔術師にとっては、もっとも優先して越えなければならない壁である。

 術式の発動条件は、祖父の死亡。
 その事から、祖父の魔法だけは死守せねばいけない、との強い思いが感じられる。
 その祖父の強い思いは、一つの壁であった祖父を倒し、ようやく目的の魔法を手に入れる目前まで辿り着いた、敵の魔術師の利を無情にも覆す凶悪さ。
 敵の魔術師にしてみれば、崖の向こうにお宝を見つけ、警備をどかせたというのに、向こうに渡るための手段を総て断たれた、生殺し状態。
 こうなれば、目的を目の前に、他の警備員が応援に訪れるのを、ただただ待つか。
 その応援が来る前に、どうにかして、お宝の元にたどり着く道を切り開くか。
 前者を選べば、また攻防は振り出しに戻るだけだ。それも、魔術禁止という制限を持たされた分、分が悪くなったともいえる。
 必然、後者を選ぶしかなくなる。
 リミットは新たな応援の魔術師が、この櫂田の土地にやってくるまで。
 それまでに、少なくとも術式さえ破壊できたのなら、対等に渡り合うことも出来、そのまま目的の魔法を手に入れることが出来たのなら、願ってもない事。
 敵の魔術師にしてみれば、選択肢は一つしかない。
 
 そして。
 アリスが日本にたどり着いて、もう、屋敷を目の前にしたところまでやって来たところで、敵の魔術師は祖父の残した最後の壁を突破した。
 アリスに掛けられていた束縛が解けたのが、その証拠。
 この状況になると、相手の魔術師の行動はもう決まったようなもので。このまま、屋敷のどこかに在る、魔法の元へと向かうだけ。
「…………ほんと、ぎりぎりね」
 アリスとしては、それをどうしても阻止せねばならない。
 そうであるのなら、屋敷のすぐ近くまで辿り着いている現状は、運が良かったと、いえるかもしれない。
 未だこの街にたどり着いていなければ、魔法は抵抗も無く奪われていたことだろう。
 そう言う意味では、敵の魔術師も運が無い。
 アリスの到着があと一日遅れていれば、魔法はその手中に収まっていただろうに。
 
 アリスは坂の先を見据える。
 深い闇が翳っていて、先の様子は見通せない。
 それでも、アリスの双眸はじっとその先を。
 闇を見つめすぎたのだろうか。
 アリスの瞳は闇く、深く。

「さぁ、総てに定めを与えましょう」

 踊る言の葉が合図して。
 身体中に魔力が行き渡る感覚。
 閉じていた回路が熱を帯び、アリスの身体に無数の魔術を施していく。
 
 少女の身体が空を跳ぶ。
 夜の中、優雅に影が弧を描く。
 砕けた星の光の中、今宵の舞台に下りて行く。


■■■


 黒衣の少女が街灯の明かりの内から去ってから。
 その場で一つの変化が起きた。
 小さな異常。
 本来起こりえない、神秘の話。
 その事に気付けた者はいない。
 アリスの置いていった鞄の隙間から。
 こぼれる様に這い出てきたのは、四葉のクローバーでつくった押し花の栞。
 鞄の口から一度、地に落ちて。
 風にさらわれ空へ舞う。
 そんな、とるに足りない、不思議の事。




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