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 夜の街を闊歩する。
 周囲に人の気配は無い。
 町の外れの工業地帯。
 冷たい風には、錆びた鉄とゴムの香り。
 響く足音は二人分。
 夜半に響く冷たい行進。

 
◆◆◆


「町外れの―――少し、山の方へ進んだところ。ほら、工場が建ち並んでる辺りを抜けた先の、赤い廃工場」
 薄暗いマンションの一室で、彼女はとある噂話を口にした。
 家財道具のほとんどが置かれていない部屋の中はがらんとしていて、冷たい空気が沈殿している。その上、日当たりは最悪で、まだ正午を少し回っただけだというのに薄暗い。
 比較的明るい窓際に、小さな丸テーブルと椅子がある。
 彼女――生駒結衣(いこま ゆい)は、そこに腰かけ、ぼんやりと窓の方を見ていた。
 窓には白の薄いカーテンが敷かれているから、きっと何を眺めているわけでもないのだろう。それに、窓の外には新しくできたマンションの壁がすぐそばにあるだけで、景色は最悪だ。
 それでもこの部屋に多少の光源が入ってくるのは、隣にあるキッチンの窓があるからで、西向きのその窓からは遮られることない太陽の光が差し込んでくる。
 この部屋唯一の日の光の当たる場所には、まるで猫のように日向のフローリングに座る少年の姿がある。
 少年は壁に背を預けて、結衣の姿を見つめていた。
 目が隠れるほど伸びた髪に、温和な顔立ち。黒縁の眼鏡のせいか、どこか真面目な印象を受ける見た目で、毒気を一切感じない。
「昔は染料だか、なんだかの工場だったらしいんだけど………、まぁ、その話はいいわ。長いし詰まらないもの。瑞人だって、詰まらない前置きなんて聞きたくないでしょ」
「僕はべつに無駄話も嫌いじゃないけどね」
 瑞人と呼ばれた少年――安曇瑞人(あずみ みずひと)は「話したいなら話してくれてもいいよ」と続けた。
 それを聞いて少しの間、彼女は口をつぐんだが「いいえ、本題にいきましょ」と話を進めることにする。
「まぁ、粗方見当はついてると思うけど。例の人形の一体が見つかったわ。さっき言った通り、町はずれの廃工場で」
「――――そう」
 必要最低限の言葉で交わされた会話。
「成長具合は?」
「ちゃんと確認できてないけど、少なくとも10人は飲み込んでる」
「…………なら、準備をしなくちゃいけないね」
 瑞人は伏目がちに答える。
 瑞人が一瞬、痛々しい表情に変わったのを、結衣は視界の端で見た。
「理由は分かるけど、別に瑞人のせいじゃないから。アレの行動は、アレ自身の責任だよ。だから、瑞人は関係ない」
 瑞人が顔を上げると、変わらずに窓の外を眺める結衣の姿があった。
「そう、だね。――ありがと」
「どういたしまして」
 なんだか少しぎこちない会話。
 二人には精一杯のものだったが、傍から見ればそうは見えないもので――



◆◆◆


 真実の探求。
 多分、少女だったころのわたしが持っていた一番強い感情はそれだったと思う。
 真実といっても、別にそんなに大層なモノでもない。
 ただ、好きな人が何を考え、どんな景色を見て、願わくばそこに私がいてほしいと。
 うら若き女子高生だった恋するわたしの思考はすべて彼のもの。
 ただ遠くから眺めていればそれで良くて、それでも隣に並んでいたくて。
 見てるだけから一歩前へ。
 その一線を踏み越えるために、多くの助走が必要で。
 きっとそう、望んだものは手に入らない。
 望んだまま、形を変えずに手に入れようなんて、そんな都合のいい話。
 そう考えたわたしの選択は臆病で、病的で。
 目の前に現れた魔法使いが悪魔だと知っていても、それにすがることしかできなくて―――



◆◆◆


 冷たい夜風に乗って錆とゴムの焦げた匂いが鼻をつく。
 昼間の騒々しさはわずかにも感じられぬほど、シンと静まった工業地帯を抜けてゆく。
 進むにつれ、生きた工場の匂いは薄れてゆき、だんだんと視界に黒が増えていく。
 随分と町から離れた場所に来た。
 ぽつぽつとある街灯はほとんどが消えていて、僅かに残った光はちかちかと点滅しながら、わたしが進むべき道の先だけを知らせてくれる。
 地上に光がないからか、空を見上げると煌々と星々が淡い輝きを放っていた。
 月は、ない。
 そのせいか空の闇は一層深く、普段より多くの星の明かりが浮かび、ずっと見上げていると、夜空が落ちてきたような錯覚を覚えた。それも続けていると、空が落ちてきたのか、自分が落ちて行っているのか、分からなくなるような。
 こんなにもしっかりと地に足がついているというのに、おかしな話である。
 瞳を閉じて三つ数えた。
 目を開けた時、視界の隅で星が流れたような気がした。
 前を向く。
 相変わらず点滅する街灯。
 その明かりの先に、巨大な影を見る。
 数年前に役目を終えた廃工場。
 かつては顔料の製造工場で、その名残は工場の床や天上、外壁までを真っ赤に染めていた。
 長年雨にさらされても落ちることの無いその赤は、何か強い怨念が染みついているようでもあった。夜闇に沈んでも異彩を放つ出で立ちは不気味なもので、その場に留まる事さえ躊躇させる凄みを感じるほど。
「とても不気味だ」
 隣で声。淡々と言う口調のおかげで内心が伺えない。

 ―――まぁ、彼が恐怖を感じていることは無いだろう

 それだけは確かである。なんせ、彼には死を恐れる理由がない。
 羨むことだろうか――と、ふと思う。
 死への恐怖を感じずにいられるのなら、わたしの苦しみの半分は無くなってくれるだろう、と。
 しかし、一方で悲しい事だとも思う。
 彼の生への執着無き理由を知っているから―――
「あまり、長いはしたくないね、結衣。はやいうちに済ませよう」
 顔に笑みを浮かべながら、そんな事を言う。
「そうね、それには同意するわ」
 長居したところで、こちらに一つも得は無い。むしろ、悪化する一方だと思っている。
 理由は二つ。
 精神衛生的なものと、もう一つ。
 敷地の外まで滲みだしている、このおびただしいまで呪い。
 嫌な夜になりそうな予感がした。



◆◆◆


 こめかみに銃口を向けられているイメージ。
 引き金に指先が掛かっている。
 指先には覚悟。
 指先は震えることなく、優しく引き金に掛かっていて、その先に起こる未来を見ている。
 ”   ”はわたしに銃口を向けている。
 わたしは”   ”に銃口を向けている。
 すべきことは分かっているだろうと。
 決して誓いを忘れぬように。
「いつも通りでいいから」
 言い聞かせる様にそっとつぶやく。
 普段通り。何も変わらない。
 今日だけが特別なはずがない。特別になるはずがない。
    足を踏み出す。
 強い恐怖が、恐怖に固まるわたしを動かした。


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