戻る
感じるはずのない重さを感じるほどに深い夜の闇が部屋にのっぺりと充満する。
 聞こえるのは、規則的に時を刻む針の音と、意識しているからなのかえらく不規則な自らの呼吸音。――街の街灯に明かりが灯っているのか、締め切られたカーテン越しから弱い光が部屋の闇を混ざるように解かし、置かれた家具の輪郭をぼんやりと浮かせる。
 外は雨なのか、時折風音を孕みながらパラパラと屋根を跳ねる雨音。薄暗い部屋は、世界から隔離されている空間だという錯覚を与えてくる。
 その錯覚は不安と安心という、二つの反する気持ちを感じさせた。
 反するのは文字の上だけで、実際には同時に自分の中でこの二つを感じることはたやすい。同時に二つのそれを持ち合わせてはいけないなど、誰が決めたわけでも無いのだから。
 だから僕は感じる。
 不安。
 暗闇に堕ちた世界で、右も左も分からずにいるという錯覚によるものなのか、それともそこにただ一人っきりで存在するという事によるものなのか。
 この場合、僕の感じた不安のタネは、どちらかというなら前者の方だろう。
 後者には不安など微塵も感じない。
 孤独によって寂しさから不安を感じる事なんて私には無い。
 普段から僕は一人でいるが、寂しいと思ったことはないし、それに不安を感じる事なんて尚のこと無い。
 だから僕は、不安の正体は分からない自分の居場所だと判断したが、それが正のかどうか。もとより不安なんて、今現在に分かっていない事に対して感じるモノなのだから。
 きっと僕が不安を抱いたモノは、先の見えない暗闇そのものなのかもしれない。
 けれど僕の中に生まれたもう一つの安心という気持ちもこの暗闇にあるのだと判断した。
 一寸先も先も見えず、そこにあるモノの形すらも隠してしまう暗闇は僕に安心感を与えるのだ。
 そこでなら、どんな音が聞こえようとも、その音の正体を確かめ、視認する事は出来ないだろうから。
 普通は目に見えないその音に恐怖するのだろうが、僕は違った。
 常日頃から、《オト》を感じている僕は暗闇での姿の見えない音に恐怖することは無い。
 むしろそちらの方が、安心するのだ。
 暗闇で無いと同然となった視界ならばどんな音が聞こえようとその正体は分からない、という事は変わらないが、しかし一方で、暗闇の中に確かにそれが存在しているのでは無いかと思うことが出来る。
 そしてその音の正体を、暗闇に作られた、自らの想像だけで彩られた世界に観る事が出来る。
 僕はそれに安堵する。それが唯一、私の世界の均衡を保つ事の出来る方法だから。
 ずれた映像と音は違和感を感じさせ続ける。
 だったらどちらかを消してしまうのが手っ取り早い。
 そうすれば、どちらか一方でも正常に働く。
 僕は視界が暗闇に覆われた世界を好んだ。
 本当はどちらでもよかったが、どうにも僕の世界から、オトを消すことは出来ないようだったから。
 薄暗い部屋の中、一人ベッドに横たわり、毛布を頭まですっぽりと被る。――光は無くなった。同時に、音も。
 それも一瞬。
 とたんに闇に満たされた世界が音に覆われる。
 聞こえる音は様々。
 
 ――僕の世界はいつでも音に満たされていた……

 それはまるで、旋律のように。

          ///

 僕は耳がよかった。
 遠くの物音がよく聞こえたし、小さな話し声でも全て聞き取ることが出来た。
 それに、どこにあるのかも分からないような不思議な音も。
 聞こえる音は、気配的に身の回りの全てを僕に伝えた。
 しかし、耳のいい事なんて別に良いことがあるわけでもないし、別段特になるような事も無い。
 足が速かったり、泳ぎが得意だったり、目がよかったり、鼻がよかったりなんて事だって、それに特化した特殊な仕事にでも就かない限り、平凡な日常生活を送るのに自らの得になる、と感じることは少ない。
 していうなら、小声の内緒話を聞き取れるくらいだが、他人の内緒話なんて聞いてて気持ちのいいものじゃない。それが役に立つとすれば、探偵や刑事の仕事だろうが、生憎とその職業には興味がない。
 聞こえすぎる音は、生まれたからずっと僕に違和感を与え続けてきた。例えるなら、山にいるのになぜか、海の音が聞こえる感じ。
 今いる場所に無い音が聞こえるのは、恐怖すらも与える。
 僕は、その音はどこか遠くの場所の音なのだろうと考えることはあっても、どこの音なのか、なんの音なのかといった事を調べる気にはならなかった。
 が、転機とは自分の意志とは無関係に、唐突にやってくるものらしい。
 僕はその音の正体を知った。
 聞こえていたのは遠くの音だった。
 遠くにあるのに、近くにある音だった。
 僕にとってはすぐ隣にあるのに、普通は聞こえるはずの無い音。
 聞こえていたのは、霊の音だった。簡単にいえば、死者や幽霊達の音。
 そんなトンデモ話を初めて聞いたのは、3年ほど前になる。
 僕が、高校1年、16歳になったばかりの夏のことだ。

          ///

 あの頃の僕は、いつも退屈し、恐怖していた。
 何を考えるわけでも無く、ただぼーっと校舎の窓から眺める空は、どこまでも青かった。
 1年の1学期は、他人と関わるのは必要最低限に、それ以外はずっと窓の外を見て過ごしていた。
 避けていた、と言ってもなんの間違いもない。
 関わり合いを持ちたくなかった。聞きたくないモノまで聞こえてきてしまうから。
 高校に上がってなんの感慨も無くやってきた初めての夏休み。
 ただある時間を何をするわけでも無く過ごし、それももう終わりかという8月の30日。
 長い休みの終わりと同時に、そろそろ夏も終わりだろうに、空は容赦なくその夏の最高気温を叩き出していた。
 日本中が狂ったような熱気に包まれていて、街を歩く人々の瞳には生気というそれが、薄くなっているように感じた。
 そんな、熱さに狂った日。
 日中の熱さがそのまま、外が暗くなり始めてもしつこく辺りに残っていた。
 深夜。
 茹だるような熱さで目を覚ました僕は、少し身体を風に晒そうと部屋を出た。日付は替わり、すでに8月31日夏休みの最終日に入っていた。
 すでに夜も遅いからか、明かりの点いている店は少なく、すれ違う人も疎らだった。
 まだ熱さが残っているのか、夜風は生温かった。……道理で寝苦しいわけだ。
 少しでも涼しい場所へ。
 そう思い、自然と足は河川敷へ向かった。
 綺麗に整備された河川敷は街の端に位置していて、見える街明かりは遠く小さかった。
 その街明かりもこちらを照らすにはいたらず、なのに月明かりのせいか、辺りはとても明るかった。
 水辺だからなのだろうか夜風は涼しく、熱く火照った身体を冷たく撫でる。
 近くにベンチを見つけ、誰に気を使うわけでもなくベンチの左端に腰を下ろし、そのまましばらくの時間を過ごす。


 そろそろ身体も冷えてきた頃、部屋に戻ろう、そう思ってベンチから立ち上がる。
 と、同時。
「――残念、もう行っちゃうの?」
 夜風に乗って優しく問いかける、女の声だった。


戻る