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「夕闇迫る――雲の上……ってそんなに雲無いじゃん」
 誰に聞かれるわけでも無いからこその、独り言は強い風に流されて行く。
 今日はずっと森の中。馬を引きながらの旅路は、足場も悪く視界も悪く。代わり映えもしない景色にうんざりとしていた。木々が遮って良くは見えないけど、どうやら空に雲の姿はそれほど確認できない。薄紫がかった空に、オレンジの光が差し込んで――
「今日も森の中、かなぁ」
 昨日も、その前の日も、森の中で野宿だった。
 年頃の乙女は普通そんなことしない事を、私は知っているけれど、自分で自分の事を乙女だなんて形容するのは気持ちが悪く、どちらかと性格からして男の子よりだってことも知っているから、辛さはない。
 強いて上げるなら、草の地面は寝心地がいいけれど、其処に臭いキノコ初め植物の香りや、木々の根っこによる地面の凹凸、動物たちの気配を警戒をしていたりする事を考えると、森の中で一夜を明かすのは、あまり気の乗るものではない。
 草原の隅っこで星空でも眺めながら草のベッドに横になるのはいいかもしれない。砂漠は最悪だ。夜の星空は遮るものがなくて綺麗だけど、昼間は馬鹿みたいに暑いくせして、夜になると嘘のように寒くなる。雪国にも引けをとらないほど深夜になれば下る一方の砂漠の気温は、過酷の一言で片付けるのが手っ取り早いだろう。洞窟の中は、寝心地こそゴツゴツとした岩が痛くてよろしくないけれど、ただ、それほど警戒する動物が居ない分、気が楽かもしれない。そこが肉食動物の巣穴なら最悪だけれど。どこぞの街の路地裏で眠るのは惨めだけど、そもそもで街があるのなら、宿に止まるから、そんな思いはしないし。沼地の辺りは、ちゃんとした地面さえ見つければ安心して身体をやすめられるけど、しかし一方で、毒気の多い生き物が多いから、精神的な疲労のほうが大きいかも。
 あれやこれや考えて見ると、案外森の中で過ごす夜も悪くないのかもしれないなんて、思えてくる。けど、一番いいのは、どこかの街で、安宿をとって。埃っぽくても暖かなベッドと綿がなくたって木の根のそれよりは柔らかな枕でぐっすりと眠る事だろう。食べ物だって、暖かなスープや焼きたてのパンが食べれるのなら、他になにもいらない。
 木の葉の覆う空を見上げながら歩いていると、ふと覆う幕が外れ、開けた空。そこに見えたオレンジに染まる雲が焼きたてのパンに見えて、思わず手を伸ばすが、届くはずもなく空を切る。
「うぅっ」
 そうやって、幻想を見せた空を恨むと、そこで気付く。どうやら森を抜けているらしいということに。自分の歩いてきた道の先は下り坂。背後には暗い森が広がっているだろう。
 そして、下り坂の先まで視線を下ろすと――
「……また森」
 ただの切れ目だった事を知って、項垂れる。一応先には、海が見えるから、明日まで森に寝泊まりということはなさそうだけど。心なしか、隣で馬のクゥも頭を下げてうんざりとしているようにも見える。
「そうね、そうねー。嫌だよね……ごめんね、付きあわせて」
 謝りながら背中を撫でる。それに答えるように、クゥはブルっと頭を振った。その様子を見ると、振れるクゥの頭の先、微かな光が見えた。それは森の奥に見える海岸線を右手にだどった先。小さな光の集まりだ。水平線に沈む夕日が何かに反射しているわけでもない限り、あの光は恐らく、
「街?」
 港町という可能性が随分と高く。
 となれば、明日には辿り着きそうな距離だ。そうすると、5日ぶりに、宿の埃臭いベッドね眠れるということで。自然と、気持ちが高ぶっていく。
「よっし――――」
 クゥの手綱を握る手に少しだけ力がこもった。滅入っていた気持ちは、軽く。
「坂を降りた所で、今日はお休みにしよっか、クゥ」
 もうひと頑張りだ、と、坂を下る。まだまだ、感じるはずもないのに、どうしてか、頬を撫でる風の中に、塩の香りが含まれていたような気がした。